「ドブスを守る会」、その顛末

首都大の指導准教授を諭旨解雇 「ドブス」映像投稿で

首都大学東京の学生が「ドブスを守る会」と称して通行人の女性を撮影し動画サイトに投稿した問題で、首都大学東京は6日、システムデザイン学部インダストリアルアートコースの久木元拓准教授(43)を諭旨解雇の懲戒処分にした。
(2010/07/03 共同)

指導准教授の解雇という予想外の事態を迎え、この事件も一つの山場を越えたようなので思うところをいくつか。

最初に、問題の映像に関して。インタビューを受けた女性達の気持ちを考えると、とても最後まで見るに忍びないものだった。名誉毀損や侮辱といった生易しい犯罪ではなく、女性達の心を踏みにじるレイプにも等しい犯罪にしかみえなかった。しかも、撮影場所が馴染みのある駅前だっただけに余計に生々しく、笑いどころか怒りが湧き上がる映像だった。

指導准教授について。何よりも驚いたのは、この映像が卒業製作であること、そして指導准教授がこの映像を視聴していたにも関わらず製作を止めなかったことだ。つまり、この准教授はこの映像が犯罪であることを認識できなかったのである。しかも、事件が明るみに出た後に大学側から事情を聞かれた当初、彼は映像を見てないと保身のために嘘をついていたという。この事件で最も許すことができないのはこの准教授であり、二度と教壇に立って欲しくない。

動画を撮影した二人の大学四年生に対して。准教授にも驚きだが、さらに驚きなのが学生らは障害者までも笑いの対象として映像にしようとしてたことだ。

仲間内で情報交換するサイトを通じ、身体障害者の女性と健常者の女性の反応を比較することまで計画していたのだ。「ドブス…」動画が発覚したため、計画は実行されなかったが、発覚しなければさらに被害者が増えていたのは間違いない。
お騒がせ首都大「ドブスを守る会」に別ターゲットも存在
(2010/06/23 産経)

ここまで来ると、もはや狂気の沙汰という他ない。学生たちは「オカシミ」を追求していたようだが、どうみても彼らの頭が「オカシイ」。さらに「オカシイ」のは、こうした話題を平然とTwitter上で友人達と話していたことだ。友人達は彼らを煽ることこそすれど、彼らを注意して止めようとはしなかった。彼らの行為に対して周囲からの抑制が全く機能しなかったのも怖い。指導准教授も含めて「類は友を呼ぶ」ようだが、大学側の迅速な退学措置と諭旨免職がこの事件の唯一の救いだった。

もう一人、訓告を受けた准教授について。学生たちが作成した別の映像を持ち上げるようなコメントをTwitterに残し、それが大きな非難を招いた。ただ、この准教授には少し同情している。コメント先の相手が最悪な学生たちだったために、この准教授の言わんとしてることが曲解されたまま一人歩きしてしまった。ちなみに学生たちを持ち上げたとされるのが以下のコメント。

集めた募金の最適かつサイコーな使いみちが実演提示できたらC↑Pにも迫れると思われ。誰もが気づかないでいる”未来の何か”をきみが発見してみんなの目の前にさらすことで更なる笑いや共感あるいは反感(上等!)が生み出せる。いっそC↑P作品「オレオレ」を越えよ
Favotter

挑発的に見える「反感(上等!)」という言葉も激励の範囲内であり、決して犯罪を煽ることを意図したものではない。「人生は一度きり。周りのことなど気にせず自分の好きなことをやれよ!」と励ました相手が殺人を犯してしまった、そんな有様である。周りのことなど気にせず、、、これには迷惑や不快感が含まれているかもしれない。だが、励ましたつもりの相手が犯罪まで起こすとは、いったい誰が想像しようか?

他にも准教授は、このコメントのちょうど一ヶ月前にTwitterで以下のように述べている。

嫌われることをする人を僕は信頼している。嫌われたくないと思うがため に人はどれだけのものを失っていることか。人から嫌われることをするのは芸術家の役割の1つだ。それは人の顔色見ながら生きることで失った自分らしさをリ マインドさせる。破滅と会田誠とC↑Pの共通点。
Favotter

この文章が良いものとは思わないが、言わんとしてることに対して頷ける部分もある。綺麗なものや心地よいものばかりが芸術ではない。醜悪なものや嫌悪感を抱かせるものだって芸術である。特に、これまでの倫理感や常識といった既成概念を打破するような芸術は嫌悪感を生む場合もあるだろうし、賛否を引き起こすこと自体が目的の芸術だってあるだろう。こうした解釈で正しいのなら、この准教授のいう芸術家の役割の一つにも頷ける。

しかし同時に、芸術は犯罪に対する免罪符ではない。芸術にもルールがあり、それを無視しては芸術とはいえない。もちろん、あえてルールを逸脱してでも訴えたい芸術もあるだろう。仮にそうであれば、ルールを逸脱してでも訴えたい芸術の意義について世間に説明する責任が芸術家にはある。さらに、引き起こされる事態に対して責任を負う覚悟が芸術家には必要である。このように説明責任と行為責任とが芸術家に求められるのであり、それから逃げるのでは芸術とは言えない。

今回、学生たちは芸術という隠れ蓑を使って卑劣な映像を作成し通行人の女性たちを傷つけた。彼らに下った大学四年での退学処分は、最後に完成した「オカシミ」として彼らに相応しい顛末だったに違いない。

「アワレミ」を感じないわけでも無いが、、、

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